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ボーンクリスマスツリー。
お台場の南、かつては不燃ごみの処分場があった、 今は二十四区と呼ばれる東京湾の埋立地に建つメガストラクチャーを人々はそう呼んだ。
幹に相当する支柱部分が、ガラスで覆われたストラクチャーの本体であり、 それが特殊塗料によって夜になると燐のように青く輝き、円錐状に組まれた白い骨組みを幽玄と闇に浮かび上がらせるからだ。
その骨の樹は、『鋼皮病』を引き起こすアポカリプスウィルスの抑制と日本人の健康管理を行う特殊ウィルス災害対策局《アンチボディズ》を有する、 無政府状態が続く日本を統括する国際連合極東統治総司令部――GHQの本部である。 さらには《ロストクリスマス》でテロの標的とされた、当時、遺伝子研究では世界最高レベルの技術を持っていたといわれるセフィラゲノミクス社も入っている。 アポカリプスウィルスのワクチンは同社の協力なくしては完成しえなかったといわれる多国籍企業だ。
治外法権が適用された、日本でありながら日本ではない、 二十四区なくしては日本は成り立たないとまでいわれている、最重要区である。
その地を囲む暗い湾の洋上で、テロ組織《葬儀社》のリーダー恙神涯は、皮肉めいた笑みを浮かべ、ボーンクリスマスツリーを見上げた。
「……日本復活の象徴、か」
血が流れたあとのような赤いラインの入った黒いトレンチコートに身を包み、
静穏航行中の小型ボートの突端に立つその横顔は、とても十七歳とは思えない陰を帯びている。
退色して金色に見える長い髪を乱しながら振り返り、涯はボートに居並ぶ《メンバー》をその灰色の瞳で睥睨した。
「いまの日本人は猿だ。東照宮に彫られた三猿だ。見ず、言わず、聞かず、おとなしく飼われ、ありもしない夢を見させられている猿だ。
だがそれも今日この日をもって終わる。その腕を殴りつけても引き剥がし、俺たちの姿を見させ、俺たちを呼ばせ、俺たちの声を聞かせてやる。
俺たちの歌を聞かせてやる! 我らが葬送の歌を!」
おお、と武装した黒服たちが声を上げる。そのほとんどが、創られた涯のカリスマ性に惹かれて集った憂国の士だ。
日本をGHQの支配から解放するという表向きの理念に共感し、戦いに身を投じた者たちだ。
涯は大きく頷くと腰に下げた大口径の銃を引き抜き、星のない空に向けた。
「――作戦開始だ」
ボーンクリスマスツリーの輝きに青暗く染まる東京湾に、陽動の轟音がした。
耳を聾するような警報が鳴り響いて廊下には赤色灯が灯り、楪いのりは涯が行動を開始したことを知った。
作戦通りではあるが、この赤色光には、オレンジ色の百合の花を逆さにしたような形のホロスーツの、光学的透過迷彩を無効化してしまう作用がある。
ここからはより慎重に――いのりは涯の言葉を思い出し、随行しているオートインセクターの《ふゅーねる》をそっと押した。
甲虫を思わせる丸い体型のロボットは音もなく進みながら次々とセキュリティカメラに擬似映像を流していく。
無線式のカメラの弱点だ。物理的な干渉なしに乗っ取ることができる。
そっと、猫のように静かに、いのりは無人の廊下を進んだ。
ふゅーねるはひとつの扉の前に立ってマニュピレーターを伸ばし、電子錠の解除を行っていた。
網膜、掌静脈、遺伝子情報などのセキュリティを突破する様子が錠のモニターに映し出されている。
扉にはバイオハザードの危険を示すマークが威圧するように描かれ、『LEVEL‐3A』とすぐ下にあった。
ここだ。
扉が開き、いのりはふゅーねるを外に残して中に入った。
すぐに扉は閉まり、オレンジ色の光に辺りは包まれる。いのりはホロスーツの上に、壁に並んだ防護スーツのひとつを素早く着込んだ。
次の扉には防護服のグローブによる認証以外のセキュリティはなかった。
除染室に入るとウィルスチェックが行われ、灯りがレッドからグリーンに変わる。実験室への扉が開放され、いのりは目的の棚に真っ直ぐ向かった。
「ふゅーねる、お願い」
そう囁くと目の前の金属製の箱からドローワーがせり出してきた。室温との差により冷気がはっきりと白く見える。その靄の中に、目的のシリンダーはあった。くぼみは三つあったが、収められていたのは一本のみだった。
「涯の言っていた通り」
防護マスクの下で呟き、いのりは躊躇うことなくシリンダーを手にした。
黒いガラス質の筒の表面には『SAMPLE02』とプリントされている。傾けてみると光の具合で中が僅かに透ける。螺旋状に編まれた金属板に包まれるようにして、棒状の結晶体が浮かんでいる。
ドローワーは何事もなかったように閉じた。ふゅーねるが重量センサーに干渉して、シリンダーが持ち出されたことを偽装したはずだ。
いのりはそれを手に実験室を出て、除染室に入った。だが、警告灯はなかなかレッドからグリーンへ変わらなかった。ふゅーねるのデータ処理能力には限界がある。いくらコントローラーが優秀でも、道具が追いつかない場合もある。
『――ごめん、いのりん。プランⅡに移る』
耳に押し込んだ小型の無線から、弱冠十四歳にして天才ハッカーの名をほしいままにしている《葬儀社》の情報戦担当、ツグミの声がした。彼女は基本、それが誰であっても敬語を使ったりはしない。それは二つ年が上のいのりに対してもだ。だが、気にはならない。
「うん、わかった」
いのりはそう返事をすると、除染室で防護服を脱いだ。
しばらくのち、前後の扉が強制的に開放された。同時にさらに激しい警報が鳴り響く。先刻のものとは意味合いが違う。バイオハザード警報だ。涯たちの陽動の対処に向かっている警備の連中がすぐに戻ってくるだろう。
ふゅーねるが動き出し、いのりはシリンダーを手にあとを追って廊下に出た。
離されないように全速で追う。
ウィルスを封じ込めるために次々と隔壁が下りてくる。だがそれにはわずかなタイムラグがあった。その間隙を突き、いのりはぎりぎりで廊下を走り抜けて行く。
翻るホロスーツの裾が、隔壁を舐めて光を散らした。
『涯。成功しました』
爆発の轟く中でイヤフォンから四分儀の声が切れ切れに聞こえ、涯は肩に載せていた弾倉が空になった四連装ロケットランチャーを放ると、耳を押さえて感度を上げた。
「そうか」
『ですが、問題も』
弾丸が髪を一筋散らしたのを忌々しげに見、腰から大口径の銃を引き抜くと射線の元を目掛けて引き金を引いた。白い服を赤く染めて兵士が斃れ、近くで起きた爆発に涯の顔は返り血を浴びたかのように赤く照った。
「何だ?」
『強奪が露見しました』
「計算の内だ。――綾瀬」
チャンネルを切り替え、涯がそう呼びかけると、工業地帯の煙突から吹き上がる炎の夜景以外に何もないように見えた隣に、蜃気楼のように巨大な遠隔操作式歩行戦車――エンドレイヴの姿が浮かび上がった。ジュモウの愛称で呼ばれる一世代前の機体である。操縦者はそこにいないのだが、不思議なものでいるかのように話しかけてしまう。
「いのりのバックアップを頼む。連中のことだ。ゴーチェを投入してくるに違いない。何しろモノがモノだからな」
『わかりました。まかせてください』
ぶん、という音を立ててジュモウの姿は再び掻き消え、波飛沫だけが散った。涯はそれを一顧だにせず、傍で倒れている黒服の男から自動小銃を取り上げた。男の眼窩には赤黒い孔だけが開いていて、口元は奇妙に微笑みの形に固まっていた。
きっと信じて死んでいったのだろう。これが日本の解放になるのだと。
「……鬼だな、俺は」
自嘲の笑みを浮かべ、涯は弾倉が空になるまで銃を撃ちまくり、生き残った者たちに撤退を告げた。
エンドレイヴ――正式名称、エンドスケルトン・リモート・スレイブ・アーマー(内骨格型遠隔操縦式人型装甲車輛)は、文字通り遠隔操縦によって作動する大型兵器の総称である。
操縦者――オペレーターは紡錘形のコクピットで遠隔操縦を行うが、一般的な操縦とは意味が異なる。動かすというより、着るという感覚に近い。完全にではないが、オペレーターはエンドレイヴと感覚の共有ができるからだ。受けた衝撃は痛みとなってフィードバックされるが、その代償として、オペレーターは自分が現場にいるような感覚を得ることができる。無論、命にかかわるような痛みはリミッターによって遮断されるため、戦場にいながら決して死ぬことはない。それがエンドレイヴオペレーターだった。
篠宮綾瀬は《葬儀社》ではもっとも優秀なエンドレイヴオペレーターだった。組織には数台のジュモウがあるが、文字通り手足のように扱い、旧型のジュモウでゴーチェと互角以上に渡り合うことのできるオペレーターは綾瀬だけだった。
ひとつにはリミッターを解除しているということがあろう。綾瀬は生命維持のための感覚共有限界制限を外すことで他のオペレーターよりもより深い共感を得ている。ジュモウの指は自分の指、ジュモウの目は自分の目、そして、ジュモウの足は自分の足だった。
現実に戻れば、綾瀬は自分の足で走ることはおろか、歩くこともできない。車椅子がなければどこにもいけない。だが、エンドレイヴをオペレートしているときは別だった。自分の足で思うがままに歩き、走ることができる。
自由だった。
たとえ命の危険と引き換えでも、それだけの価値はあった。ゆえに綾瀬は積極的に戦場に赴いた。自分の足で歩くために。
そんな綾瀬を涯も重用した。初期からのメンバーであるということもあるが、何よりパイロットとして綾瀬はずば抜けて優秀だった。
「ツグミ、いのりはどこ?」
ボーンクリスマスツリーの資材搬入路に侵入した綾瀬は、マップと現在地を複合立体的に網膜モニターに表示させながら、兵装のチェックを行った。二〇mmガトリング砲、グリーン。マイクロミサイルポッド、グリーン。弾も燃料も十分だ。
『第八搬出路を移動中。暁埠頭橋に間もなく出るよ。三機のゴーチェが追跡してる』
「三機も?」
どうやらいのりが強奪したのはよほど重要な機密らしい。それがなんであるのか、綾瀬は知らなかった。涯が重要だと判断したのなら、それに従うだけだ。ふと、いのりは知っているのだろうか、と思ってしまい、そんなことを考えた自分に苛立って唇を噛んだ。
『それと』とツグミが告げる。『いのりん、負傷してる。重傷じゃないけど、出血が少ないわけじゃないみたい。身体能力が現時点で三〇%減退。このままだと橋の半ばで捕捉される』
「……わかった」
綾瀬はツグミから送られてきた現在地から橋までの最短最適ルートを確認すると、ジュモウの装甲上にホログラム迷彩を展開し、静穏走行で橋に向かった。とはいえ、一戸建ての家並みの大きさの機械が動けば無音はありえない。振動も起こる。あくまでも肉眼、光学的な視認を妨げる役目しかないが、インターフェースを咬ませればそこにタイムラグが生まれる。戦場でのそれは生死を分けるポイントになる。
(いた!)
埠頭へ続く巨大な鉄橋の上を疾風のように走るいのりをみつけた。あれで普段よりも三〇%低下の身体能力だというのだから舌を巻く。
いまいのりがやっているのは生身でトラックと追いかけっこをしているようなものだ。いくら狭い通路だからといっても、ここまで追いつかせなかったのは奇跡だ。だが、この先は直線だ。いくらいのりでも、ゴーチェの足から逃げ切ることはできない。
(わたしがいなかったら、だけどっ!)
綾瀬はボーンクリスマスツリーの一番下のリングから下路アーチ式の鉄橋へとダイブした。ジュモウの外部マイクが拾う風の音が耳元で唸る。激突するかのように迫るアーチ部に着地して巨大な足裏でがっちりと鋼材をホールドする。しっかりと感触がある。自分の足で鋼材を踏みつけている感触が。
「くらえっ!」
綾瀬はガトリングガンを唸らせた。焼けた空薬莢を雨のように降らせながら、二〇mm徹甲弾がゴーチェの肩関節を撃ち抜く。エンドレイヴは画期的な兵器だが人型ゆえに関節部が多くそこが弱点となる。二機のゴーチェが腕をもがれて転倒した。剥き出しになった腰部を目掛けてさらに弾丸を撃ち込みながら、綾瀬はアーチから跳んだ。
すぐ真下をいのりが走り抜ける。
残った一機のゴーチェといのりの間にアスファルトを砕きながら強引に割り込む形で着地する。ゴーチェは避けようと機体を捻ったが避けられるものではない。鋼鉄の肉体が激しくぶつかりあい、綾瀬は胸に鋭い痛みを感じて呻いた。きっと痣になった。
「何……すんのよっ!」
マニュピレーターといったほうが相応しい腕を伸ばし、ゴーチェをつかむ。
馬力は相手が上だ。だがゴーチェは汎用性が高いゆえに前面に固定兵装がない。綾瀬はゴーチェの腰部を目掛けてほぼ零距離で徹甲弾を叩き込んだ。
ゴーチェが震える。
火花が散り鋼材が飴のように変形する。ゴーチェの下半身が制御を失い跳ね回った。接合部が砕け、ゴーチェの腰部から下が千切れるように落ちる。伸び、重量に耐えられずに切れたパイプがまるで動脈のように見えた。
『綾ねえ!』
ツグミの声に綾瀬ははっとした。腕の中でだらりと下がったゴーチェの背面装甲が立ち上がって一部が開いた。マイクロミサイル! 綾瀬は咄嗟にガトリングガンの向きを変えてポッドを撃ち抜いたが、間に合わなかった。
ミサイルがジュモウの肩の上を飛び越える。自分を狙ったのでないなら、ミサイルの目標は明らかだった。綾瀬はほとんど本能的にフレアを発射した。ホロスーツはチャフと同じ効果を持つ。ならば発射されたミサイルの追尾方法は赤外線誘導のはずだった。
狙いは当たった。マイクロミサイルは左右に流れて橋に着弾し、爆発した。
爆風と轟音に体が軋む。感覚の共有に熱は含まれない。ただ衝撃を痛みとして感じるだけだ。そうでなかったら火傷ではすまなかっただろう。
そこまで考えて、綾瀬ははっとした。
「いのりは!?」
ゴーチェの残骸を放り捨て、綾瀬は振り返った。だが黒く煤けた橋の上のどこにもいのりの姿はなかった。
『海に落ちた――というか、飛び込んだみたい』
落胆したようなツグミの声がした。
綾瀬は、くっと喉が絞まるのを感じた。
しくじった。
決して戦闘に夢中になったわけではなかったけれど、第一の目的はいのりを無事に救出することだったのに、それができなかった。
『ふゅーねるの回線も途切れちゃったけど――どうする? 涯』
綾瀬は肩が震えるのを感じた。ジュモウがそれに反応して軋みを上げる。
『――死んでいないのなら、次の行動は指示してある』
涯の声はいつもと変わらぬ冷静な、感情を感じさせないものだった。
いっそ責めてくれたら、と綾瀬は思う。だが彼はそうはしない。自分を見せない――彼女以外には。それが、胸を刺す。
『ツグミはふゅーねるのトレースを続けてくれ。綾瀬はゴーチェの使える武器を回収して撤退しろ。俺たちも撤退する』
「……了解しました」
『アイ』
綾瀬と同じ意味の返事をしてツグミの通信は切れた。ガイとの通信も。
「ちくしょうっ!」
ジュモウの腕で苛立ちをアーチに叩きつけようと振り上げ、しかし思いとどまった。こんなことをして貴重なエンドレイヴを破損したなら、それこそガイに顔向けができなくなる。
渦巻く感情を無理やり呑み込み、綾瀬は大きくため息をついた。
*
ふゅーねるの後について何時間歩いただろうか? 下水の先にようやく光が見えて、いのりは小さく息をついた。埠頭に上がってすぐに応急処置をした傷口が先ほどから再び開いてしまった感じがする。
「……おなか、空いた」
ぽそっと呟いてみる。
それで空腹が紛れるわけではない。むしろ逆だ。だがそれが生きているのだということを思い出させてくれて、足を前に進めることができる。
コンクリートでコーティングされた川が地下に潜るその分岐点に出ると、太陽は随分と高かった。いのりは煉瓦のような赤茶色の瞳を眇めた。ここはどの辺だろう。六本木はまだ遠い気がする。
ふゅーねるがワイヤーを射出して川壁を登る。その後を追いかけて、いのりは壁面に打ち込まれたタラップを上がった。
いのりを待ち受けていたのは、雑草に覆われた空き地と錆びたフェンスだった。『天王洲大学敷地・関係者以外立ち入り禁止』と看板が下がっている。その向こうには煉瓦造りの古い建物がひっそりと佇んでおり、首をめぐらせるとさらに向こうに随分と趣の違う近代的な建物が見えた。確か、天王洲第一高校だ。
ふゅーねるは器用にフェンスの破れ目を見つけると無理やり押し広げて中へと入ってしまった。これなら何とか通れそうだ。屈むと傷が痛んだが、何とか通れた。
ホロスーツの裾が引っかかって少し破れてしまったのが悲しい。
古いと思えた建物は印象の通りだったが、廃墟然としているのは何も古いからだけではないと、傍に来るとわかった。あちこちに焼け焦げたような跡がある。崩れ方を見ると火事というより何らかの爆発による破損だと思えた。同じような跡をこれまでにいくつも見てきたからわかる。
「なんだろう……懐かしい感じがする」
冷たい壁に手をついて薄暗い廊下を進みながら、いのりは自分が何故そんなことを思ったのかがわからなかった。昔のことで憶えているのは白い、ただ白いベッドや部屋、あとは六本木での生活だけで、こんな場所は見たこともないのに。
廊下は、小さな集会所くらいの広さの場所に通じていて、足を踏み入れたいのりは、はっとして足を止めた。それから思い出したかのように影に隠れたが、もう遅い、と思いなおしてやめた。
廃墟だとばかり思っていたそこに、真新しいモニターとビデオカメラ、コンピューターがぽつねんと置かれていたのだ。まるで秘密の通信施設のように。
「ふゅーねる、ヒートスキャン」
無音でオートインセクターがモニターの周辺の熱を探査する。ホログラムモニターに表示された残熱結果を見る限り、少なくともここ二時間ほどは人がいた形跡はなかった。
いのりは壁に押し付けられるように置かれたデスクによると、そっと指で表を撫でた。埃がつかないということは、それでも最近、ここを使った人間がいるということだ。
長居はできない。けれど傷の手当てだけはしておかないと。これ以上の失血を許せば動くこともできなくなる。
そのぐらいの時間はあるだろう。涯がここへ行くようにとふゅーねるに指示を出したのだから、他よりも危険は少ないはずだ。
いのりは煉瓦の床に座ると、ふゅーねるを招いた。忠実なオートインセクターはすぐにやってきてひんやりとしたボディを押し付けてくる。いのりは下水で汚れた表面を撫でるようにして蓋を開き、ほっとした。シリンダーは無事だ。
蓋を閉じ、別の小蓋を開いて中からファーストエイドキットを取り出し、ホロスーツを半分脱いだ。傷を見ると上に貼ったパッチが吸収しきれずに血を流していた。剥がし、血を拭って、熱縫合クリームを塗る。皮膚が焼ける痛みにいのりは小さく呻いた。だがこれで殺菌と傷の縫合はできた。局所麻酔薬を染み込ませてあるパッチを貼り、いのりは息をついた。
痛みがやわらいだら出発しよう。
いのりはホロスーツをはだけたまま天井を見上げた。五月の陽射しはあたたかく肌を温めてくれる。痛みが薄れていくと共に心地よさが増してきて、つい、歌がこぼれた。
嬉しくても、悲しくても、いのりは歌う。否。そうしたときにこそ、いのりは歌うのだった。笑うように歌い、泣くように歌う。そうすることでしか、いのりはうまく感情を面に出すことができなかった。だから自然といまはお昼寝をしたくなるような歌になった。
「――うそ、だろ?」
ふいにかけられた声に、いのりははっとして振り返った。
自分が入ってきた入り口とは別の、扉が失われた戸口に自分と同じくらいの年の男の子が立っていた。油断した。制服から隣の高校の生徒だとわかった。平和そうな顔をしている。手に鞄と小箱を持っていた。だが、C‐4爆薬には見えない。
「エゴイストの、いの、り?」
「!」
立ち上がった途端、眩暈がした。
なんのつもりか、男子高校生が駆け寄ってくる。いのりは伸びてきた腕の制服の裾をつかむと同時に足をかけ、ぐるんと腰を回した。投げた。男の子の体がふわりと浮き、そのままもろとも煉瓦の床に落ちる。
悲鳴と共に抱えていた鞄と箱のようなものが跳ねた。
蓋が外れ、中身が飛び出す。
いのりは組み伏した男の子も、自分のあられもない恰好のことも忘れ、くるくると宙を舞う小箱の中身に目を奪われた。
なぜなら。
(――おにぎり)
艶々とした白い米肌を陽光に煌かせながら、それがくるくると回る。
ぐぅ、とおなかが鳴った。